木次線の歴史

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【うんちく1】簸上鉄道

木次線の前身「簸上鉄道」

 大原郡から仁多郡を経て広島に至る陰陽連絡鉄道の敷設は、雲南奥地の開発を企画する有忘や地元住民の強い念願であった。

 明治42年(1909) 11月、山陰線が宍道まで開通するに及んで鉄道敷設の熱はいよいよ高まった。

 大正2年(1913) には、絲原武太郎、木村小左衛門、田部長右衛門等34名の設立発起人によって、簸上鉄道株式会社創立事務所が松江市殿町につくられた。同年12月8日軽便鉄道敷設許可を申請し、翌3年3月31日(木次町誌によると1月11日となっている)許可を得たので、資本金60万円で、簸上鉄道株式会社を創立し、7月31日の設立総会では社長に絲原武太郎、専務取締役に木村小左衛門を選出。早速建設用地を買収、大正4年(1915) 10月15日に着工し、翌5年2月7日には宍道~木次間が竣工した。免許状の下付かふと同時に出された総理大臣の命令書の工事期限との関係も考えられるが、昼夜兼行の突貫工事ぶりは当時の国鉄関係者を驚かせたという。

 大正5年10月11日、天気快晴。機関車の前に日の丸を掲げた1番列車が万歳の声に送られて宍道駅を発車、加茂・大東をはじめ沿線の小学生や住民のうち振る旗の波と大歓呼のなかを木次駅に到着した。(新修木次町誌)

 なお、簸上鉄道に関しての聞き取り調査では次のような情報を得ることができた。

 山陰と山陽を鉄道で結ぼうと12代絲原武太郎が大社両山鉄道株式会社を組織し杵築から赤江、米子、広島を結ぶ鉄道を構想としたが日清戦争(明治27年(1894)) が勃発して計画倒れとなった。先代の意思を継ぎ13代絲原武太郎が「鉄道こそ男子一生の仕事」と決心した。明治45年(1912) 雲南地方の有志が県知事と鉄道建設について協議し、同年7月資本金60万円(発起人54人)の簸上鉄道株式会社を設立、(社長)絲原武太郎、(専務取締役)木村小左衛門を選出し、鉄道省の石丸鉄道次官に要請し大正3年(1914) 10月から線路実測に取り掛かり、大正4年(1915) 10月、宍道~木次間21.1kmの線路を建設費74万7千円で鹿島組が1年間で敷設した。周辺の住民の理解・協力があり順調に建設された。

 新生簸上鉄道は福岡で使用されていたレールの払い下げ品を受け、片方が擦り切れていたのを逆にして使用、機関車は鉄道省、客車は名古屋の車輔会社からそれぞれ中古品を譲り受けた。

 大正5年(1916) 10月11日、宍道駅には絲原社長をはじめ県下の名士一同が集まって開業祝賀会をあげ、万歳の拍手の中、簸上鉄道の1番列車が木次駅に向かつて出発した。

 レールも悪いが枕木も悪く路盤はバラスをほとんど敷いてないため、雨の時は崩れやすく、また積雪のためよく脱線したが地域の人たちの愛着により復旧した。金山峠(加茂町地内)では力不足で、登らず乗客が降りて押したりした。との話が残っている。

 開業当時は機関車3両(英国製2両、米国製1両)しかなく、客車、貨車とも少なかったが、次第に営業成績が上がり、大正8年(1919) 1月に80万円、同12年5月、120万円に増資して機関車、貨客車を増やした。

 後に線路幅を山陰線と同じにして貨車を積み替えなしで運搬できるようになったことが功を奏し、貨物輸送の面では革命的な変革をもたらした。木炭、砂鉄などは貨車に積み替え東京まで運び雲南地方の木炭がどんどん市場に出回るようになったのは簸上鉄道開設後である。

 昭和初期(宍道~木次間、所要時間1時間5分~1時間10分)、客車には特等と並等が同一車内にあり、後には3等車、2等車となった。また簸上鉄道では絲原社長が会社収入の5%を従業員の福利厚生のため使うなど家族的な雰囲気で働き易かったという。

三新塔あきば協議会発刊「三新塔の歴史と伝承」より引用

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