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【うんちく17】簸上鉄道敷設趣意書

簸上鉄道(木次線)敷設趣意書

大原郡から仁多郡を経て広島に至る陰陽連絡鉄道の敷設は、雲南奥地の開発を企画する有志や地元住民の強い念願であった。

明治42年(1909) 11月、山陰線が宍道まで開通するにおよんで鉄道敷設の熱はいよいよ高まった。

大正2年(1913)には、絲原武太郎(仁多郡八川村)、木村小左衛門(大原郡大東町)、田部長右衛門(飯石郡吉田村)、、岡崎運兵衛(松江市竪町)等34名の設立発起人によって、簸上鉄道株式会社創立事務所が松江市殿町一番地につくられた。
創立事務所では次のような鉄道敷設の趣意書を作成し、各方面に呼びかけた。

~以下、「木次町誌」から

簸上鉄道敷設趣意書

島根県八束郡宍道村に於ける山陰鉄道幹線より分岐して大原郡木次町に達する国道は雲芸備の要衝を占め主として出雲国仁多、大原飯石三郡の咽喉たる位置に当れるを以って常に貨物、旅客の集散来往すること頻繁なれとも多年交通運輸機関の設置を欠くかため、奥部に於いては概ね人肩馬背を仮りて遠隔の地に運搬し市街地に於いては、入車荷車を用いて郡市と接近し僅かに需要供給を充たすに過ぎさる事情にして人文物資はいくため開発遅々として進まず。自然の状勢として時代の要求に順応するあたわざるを以って官民同心協力して殖産興業を勧奨する所ありといえども運賃は年を追うて著しく劇増するため、生産物の輸出及び需要品の輸入とも遂に運賃に左右せられ郡民は物品を高価にもとめ物産を廉価に売ることは、倍の損失を得さる窮境に沈めり。故にある場合において生産の奨励は、運賃の犠牲を強めゆるの結果となり郡富の一般に膨張均需するを得さるの憾なしとせす。しかしてその三郡は出雲国の宝庫と目せられ地味膏沃・五穀豊穣にして古来有名なる鉄鋼、工産及び原料饒多なるかうえに、200年斧鉞の容らさる大森林一帯欝葱として陰陽分水嶺に跨るのみならず牧畜の隆盛にして良種に富み八川牛デボン牛及び仁多馬の声価を博しつあるは既に全国に冠たり。このほか薪炭石材三椏、こうぞ等無尽蔵と称せられるとも巨万の富源は徒に死蔵せられこの幾分を搬出する今日においても国道を破壊し毎歳数千円の県費をもってするもよくこれを修理するを知るへし簸上鉄道敷設は即ちこの地方発展上必要やむを得ざる現状を黙視することあたわずして計画したるものなり

簸上鉄道の線路は八束郡宍道町を起点として官線と連絡しその以南に延長し大原郡加茂村、大東町を経て木次町に達するものにしてこの間難工と認むべき所なく将来線路の崩壊におもんばかり洪水の憂うことなく、理想的鉄道として経営し優に運賃の低減を図るを得えし、ましてや宍道港の航漕至便にして水陸連絡を期すをかね、鉄道は各市街地を縫って敷設するを以って貨客集散に利便なるのみならず鉄道材料沿線に散在し、かつ鉄道の収益範囲と称せらる、十哩内外の線路に充当するにより、将来利潤の少なかざることは、これを統計および実際に証明するに足る。試にこの線路の地域を挙げて3郡の面積79万里、人口87千、戸数18千にして、その需給と移動とここ独占的鉄道に依るべきは、必然の勢にして、この雲国各郡市及び米子地方に共通的利益を分布すべきは、当然の理なり。かの明媚なる山水を控え、官幣大社「出雲大社」、国幣小社「日御碕神社」及び「一畑薬師」、「鰐淵寺」の参詣者並びに松江今市方面の旅客は中国九州よりこの線路を通過すること最も利便にして、従ってその多数なるに証するも天然の枢要地なることを知るへし、関係地方に於いて旅客に常に屯集する所は難症郎治の「海潮温泉」、温泉村温泉あり神代史に光採ある「船通山」及び国幣小社「須佐神社」、「須賀神社」、「三刀屋天満宮」、「蓮華寺」、「岩屋寺」等あり、奇勝として人口に膾炙する「鬼舌震」、「龍頭滝」あり。規模壮大なる陸軍省直轄「島根種馬所」及び「温泉村水力発電所」あり。共他名所旧跡少なからず蓋し軽便鉄道として各種の要件を具備し貨客両本位を実現すべき本線の如き適良の線路は恐らく山陰道に於いて他に類例なかるべしと確信す。鉄道院は慈しむに観る所あり一昨年晩秋技師を簡派して本線の測量を終え直ちに鉄道網に編入し政府補給利子を下付すべき資格線に認定せられ、本県当局者亦熱誠を以って勧奨到らざるなし。雲国経済的同盟は自からこの有利の良線に依りて成立せり

如上の理由に依り当会社は最も堅実に経営し株主に利益を提供し併せて公衆の福利を増進せんとす、幸いに定款目論見書及び収支予算等御熟覧のうえ、株式応募あらんことを切に希望す

開通当時の宍道駅周辺

木次駅周辺

この趣意書からは、当時の沿線住民らの鉄道敷設への想いがひしひしと伝わってきます。