昭和四十年代なかば木次線は、白い蒸気を噴き上げながら斐伊川沿線の町村を近代化へ牽引した蒸気機関車(SL)を引退させた。町民体育館前広場に往時のままの姿でその勇姿をさらしている蒸気機関車がそのうちの一両である。この機関車は、C56108号。豪快な汽笛がいまにも聞こえてきそうである。
実はその汽笛は発車の合図以外に意外な役目を果たしていた。一つは時計の役割、もう一つは天気予報。今は誰でも持っている腕時計だが、戦前、戦後間もなくには持ち合わせていなかった。田畑山林、道路とどこにいても、その沿線では力強い「ポー」を聞くことができた。大きな行き来は汽車一辺倒の時代。時刻表は頭の中にある。国鉄の汽車時間は正確無比であり、
「あーあれは下りの何時何分の列車」「あーあれは昼前の何時何分の上り貨物列車、飯食いに帰ろ」と見事なまでの時計であった。
さてもう一つ、機関車は天気予報官であったこと。
旧温泉村の北原や尾原集落では、その汽笛が天気予報の役目を果たしていた。この地は位置的に沿線とはいえないので頭に汽車時刻表はない。日登駅、下久野駅、あるいは出雲八代駅か出雲三成駅のそれか分からないが、日によっては僅かな音量で山を越えた汽笛を聞くことができた。ほんの僅かの音色である。
それがどうしてであろうか、天空が雨を目論んでくると不思議に「ポー」「シュッシュポッポ」と鮮明に聞こえてくるのであった。だから野良仕事をしていると、「あー汽車の音が聞こえたので、明日は雨がふーぞ」と言った。気象学と音響学の相関関係は知らない。しかしこの鮮明な汽笛は、これからの農作業の手順をよく教えてくれたのである。
二重連(機関車の連結)もあった、これら機関車の郷愁に満ちたあの豪快な汽笛は、はるか先の遺音となってしまった。
~木次町誌から